【1952年(昭和27年):
日本最初のライオンズクラブ結成】
日本にライオンズクラブが誕生日本は1952年3月15日、東京ライオンズクラブの誕生により、世界で三十五番目のライオンズ国となりました。東京ライオンズクラブをスポンサーしたのはフィリピンのマニラライオンズクラブです。
フィリピンではまだ第二次世界大戦での日本兵の行為に対する禍根が残り、市民の反日感情が強くありました。そんな中でのフィリピン・ライオンズによる日本へのエクステンションは驚きに値するものであり、示された友情は大きな感動を生みました。ライオンズクラブについて何も知らなかった日本人にとっては、ライオニズムの真髄を示すに足る出来事であったとも言えます。
皇居に近いパレスホテルの一角に小さな銅板の記念碑があり、碑面には英文で次のように刻まれています。「1952年3月21日、ここで日本の最初のライオンズクラブのチャーター・ナイトが行われた。それはマニラ・ライオンズクラブをスポンサーとして誕生し、国際協会からエドガー・M・エルバート第2副会長が出席、認証状を伝達しました。」
【1953年(昭和28年):
302地区の誕生とライオニズムの広がり】
東京ライオンズクラブの誕生後、神奈川県・横浜、兵庫県・神戸、大阪と、次々とライオンズクラブが結成され、1953年には302地区が誕生しました。初代地区ガバナーには日本ライオンズの誕生に尽力したライオン石川欣一(東京ライオンズクラブ)が選出されました。日本の高度経済成長の波にも乗って、ライオニズムの火は炬火のごとくに広がっていきました。
1955年、第一回302地区年次大会が神戸市で開催されました。1958年には会員数三千人を超えてライオンズクラブ国際協会公式機関誌『ライオン誌』日本語版創刊。また同年、第二回アジア大会(現在の東洋・東南アジア・フォーラム)が、東京で開催されました。クラブ数及び会員数は1990年代前半まで右肩上がりに増え続けた。1962年には群馬県・桐生ライオンズクラブの結成をもって全都道府県にクラブが誕生。翌1963年には会員数が三万人を超え、ついにカナダを抜いて世界第二位のライオンズ国となりました。拡大を続ける日本ライオンズは1973年に十万人を突破、1992年には会員数十七万人を記録しました。
【1969年(昭和44年):
日本で初めての国際大会】
日本が初めて国際大会のホスト国となったのは1969年。東京で第五十二回国際大会が開催されました。
日本ライオンズ誕生からわずか十年の1962年に、ガバナー協議会は「国際大会を日本に招致しよう」と掲げて国際協会及び世界のライオンズに対するPRを開始しました。開催が決定すると着々と準備を進め、とうとう実現にこぎつけました。その後1978年、第六十一回国際大会が東京で、2002年、第八十五回国際大会が大阪で開催されました。この大阪大会は四万九千人という国際大会史上最大の参加者を得て、ライオンズの歴史に残る大会となりました。
【1981年(昭和56年):
日本初の国際会長】
1981年、アリゾナ州フェニックスで開かれた第六十四回国際大会で、ライオン村上薫(京都ライオンズクラブ)が、東洋・東南アジアから初の国際会長に就任しました。村上国際会長は「ピープル・アット・ピース(みんなで築こう和の世界)」をテーマに掲げて東奔西走。まさに世界を股に掛けての活躍は、ライオニズムを説く「行動の人」と呼ばれました。
1987年、台北で開催された第七十回国際大会ではライオン小川清司(東京渋谷ライオンズクラブ)が国際第三副会長に当選しました。日本から二人目の国際会長誕生が期待されたが、残念ながら第一副会長就任中に志半ばにして逝去されました。
【現在:
さまざまな奉仕活動に取り組む日本のライオンズ】
二十一世紀になって間もない2002年、日本ライオンズは結成五十周年を迎えました。この半世紀のうちに日本ライオンズは大きく成長、成熟し、名実共に世界有数のライオンズ国の一つとなった。
それから10年以上が経過した現在、日本では全国で3,500クラブ、約13万人の会員が、地域社会奉仕を始め、災害援助、青少年育成、献血運動、国際協調ほか、さまざまな分野で時代のニーズにこたえる奉仕を行っています。今後も、世界のライオンズをリードする更なる活躍が期待されています。